チラシの裏の走り書き

地獄に沼って書かざるを得なくなった女の独り言

1945シリーズメモ

蛍火艶夜にドハマリしたのをきっかけに、近隣の沼ということで手を出した1945シリーズが思いの外刺さったのでメモ。抱えきれなくなった思いは書きなぐりたくなるタイプのオタクなので。順番は読んだ順。ネタバレ、地雷臭がしたら回れ右。

 

彩雲の城

三冊読んで振り返ると、全体的にこれは一番、いわゆる耽美なBLの系統に近いのではなかろうか。戦況の変化に伴う絶望がそんなにヒリヒリしていなくて、どことなく夢の中に続くような会話か?カップルの雰囲気がそうさせるのか?

それにしても藤十郎、現実にいたら確実に好みドンピシャのタイプな気がする。明るくタフな男が叩かれて叩かれて失意の淵から這い上がるのはなぜこんなに魅力的なのか。冒頭、彼が半長靴を鳴らしながら厚谷君を探し回るところからばっちり引き込まれてしまった。軍隊という特殊な環境下、ルールをわきまえつつも腹を括ってそれに背こうと泥臭く足掻く男、もうそれだけで追いかけたくなってしまう。何より舞台が良いよね、日本から遠く離れた南国で、空は青く植物も極彩色で、駐機場に整列する戦闘機に太陽光が反射する前線基地。まあ後半そこに徐々に暗雲が垂れ込めるのもまた不穏で味わい深いのだが。対して伊魚、最初は感情が読めないのでなかなか掴みどころがなかったのだが、ネアカで裏表のない藤十郎に対して伊魚のミステリアスで厭世的な感じがカップルとしてこれ以上なくはまる。きっと作者さんは彗星と伊魚のキャラクターデザインからストーリーを組み立てていったのだろう。機体の特性や戦況の変化に伴う彗星の役割の変化と、主人公二人の関係性が絶妙に絡み合って、苦しくも幻想的な雲の城に住もうという誓いに繋がるのがなんとも切ない。ラストはやや駆け足感はあったがハッピーエンドで良かった。BLの基本はハッピーエンド。。

 

碧のかたみ

藤十郎があれだけ探し回った厚谷くんの話が読みたいという好奇心にかられて手を出したシリーズ二冊目。結論からいうと一番はまったのはこれだった。キャラクター、ストーリーの起承転結と伏線回収、星座と花火という舞台装置、すべてがバランス良く美しい。

これはあえて意識的に語り手である六郎の人間性を描き出すためなのだろうが、とにかく全編通して地の文がとことん性善説に振り切れている。だからこそ恒の疑り深く喧嘩っ早い側面ではなく素直で空と飛行機に一途なところに惹かれたのがよく分かる。満点の星空の下で恒は恒星のコウなんだ、なんて言われたらそりゃもう傾くわ。そして皮肉なことにこれが効いてくるのが後半の絶望的な戦況下で、戦闘機の飛ばない空に花火を上げたいという願いを淡々と述べるシーンだと思う。性善説で希望を持って戦ってきた人が現実に打ちのめされて叶わぬ夢をただ噛みしめることのなんという苦しさ。フィクションといえど現代と地続きで、かつて南国の空の下で同じように絶望した若者がいたのだろうと思うと胸が締め付けられた。

セッのシーンもまた大変に好みでよかった。撃墜マークのエピソードが特に滾る。自分がイッた回数を思い知らされるのって背徳感に近い後ろ暗さと恥ずかしさがあって良い。でも関係性としては攻めである六郎の方が恒に陥落してて、それを認めながら四回戦目をすべく彼の脚を押さえつけるのがもう、もう。、!!

からの、鮮やかな伏線回収のWe surrender、のシーン。すごくできが良いのだが冷静に考えると博打すぎないかという気もする。ただ、瀕死の恒を目の前にした六郎の絶望と、それまで見せられてきた六郎の思考回路が最後まで生にすがりつく選択に説得力を持たせていると思う。いやこれ自分だけ捕虜になって拷問にかけられる可能性は。。とか考えだすととんでもない選択肢なのだが、それでも恒の戦績と月光「Irving 102」の知名度という一縷の希望に最後に縋ったのがなんともうまい構成だなと思う。

ラストシーンは本当に大団円。こんなに鮮やかで綺麗なラストになるとは思わなかった。良かったね、本当によかったね。。

 

蒼穹ローレライ

このお話、何がすごいって導入の引き込み方がもう凄まじい。戦後長い時間が経った折、元整備員、三上の元にかつての上官の息子が訪れる。不意打ちのように差し出された封筒の中身、心当たりがないと思いつつも取り出してみると茶色く粗い繊維の紙。自分はこの紙を知っている。そのざらざらとした感触とともに、胸の奥にしまっていた思い出が時の流れとともに怒涛のように押し寄せる、あの頃自分は青い空の下、ラバウルにいた、、という映画のような導入。誰でも経験があると思う、いやなくても分かる、あの過去が自分の意識の彼方から否応無しに押し寄せるあの感覚。死に別れENDが分かっているのにこれはもう読まざるを得ない。

とにかく全編通して塁が苦しいしそれを見守る三上も苦しくて悲しい。でも三上の性善説と正義感の強さが希望になって読みやすさを助けていると思う。そりゃ温かい家庭に育って真っ当に努力して機関学校に入って、搭乗員を生きて帰還させるために整備の知識と技術を磨いてきたんだもの、塁の凄まじいまでの撃墜数への執着と希死念慮とは水と油だよな、という気はする。そんな彼の秋山との会話が何より苦しい。入れ込みすぎるな、心を持っていかれる、と秋山は忠告する。客観的にはとても的を得たアドバイスなのだが、それを聞いてもう自分が抜け出せないところまで塁に惹かれていることを認める三上の告白が切ない。

これはシリーズを通して思うのだが、作者さんが当時の戦闘機に関してものすごく勉強されたのがよく分かる作品で、特にこのお話は事実上の塁の専用機となっている零戦を整備員の目線から見たスペックが塁の信念をありありと物語っている。本来読者として感情移入しやすいのは三上なのだろうが、この描写の具体性によって塁の目線に近づけるような気がしている。

思えばこれ、セッ描写はすべて塁目線なんだよな。、私は何より二回目のシーンで、体験していないはずなのに塁の渇望感にあてられて苦しくなる。空の上で目にした壁のような敵機の群れ、三上は知らない自陣営と相手陣営の絶望的なまでの格差、そして三上には逃げてほしいのにもうその手段さえないかもしれないという焦燥感。。その中で自分に誠実に尽くしてくれる三上に対してはそれはもう欲情するだろう。

塁は三上に出会わなければきっと絶望を抱えたまま、擦り切れるように戦い、最後までマイナスの感情に支配されたまま散っていったのだろう。それを思えば彼の最後の電信は救いになったのだろうか。それでも残された三上の立場では、それなら何が何でも生きて帰って自分と添い遂げてほしかったと思うはずで、三上が幾度となく想像したであろうifを思うともう胸が詰まる。最後に塁の真意を知る構成といい、余韻を引きずる結末だった。

 

おわりに

自分に刺さったコンテンツの解像度を上げたいオタクの習性ゆえに当時の情報を漁っていたところ、戦没遺族の方の掲示板で、「複座の戦闘機で一緒に散華した方の遺族に会いたい」という書き込みを目にした。自分の親戚の情報を知りたい、最期は彗星に乗っていた、との書き込みもあった。私はこの物語をフィクションとして消費すべきではなく、現実と地続きで、本来は想像を絶する苦悩や絶望を抱えて過去を生きた人達がいたということを土台に咀嚼すべきなのだろうと思う。この現実を生きる方々の書き込みを見たとき、自分でも驚くほど動揺してしまった。過去に生きた人達は、物語の中で描かれていた彗星のふわりと浮く感覚、脚やフラップが電動で畳まれる感覚を味わったのだろうか。この物語を美しいと感じる自分と、厳しい現実から目を逸らしてはいけないという心の声との間で私はまだ折り合いをつけることができていない。